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最終ランナー/松山晴介 1.傘 作詞・作曲 松山晴介 |
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歌手なのだから、やはり一番目には、彼の歌について話そう。一言で言えば彼、晴介の歌は《やさしさ》に満ちているのである。「いいこだね」「長い人生だもの」「負けちゃいけないよ」−偶然の符合だろうか、タイトルを並べただけでも、こんなにはっきりとしてしまう。どうやら晴介は、愛しいもの、かわいいもの、だから、こよなく大事にしているものに語りかけ、いつくしみつづけるように、歌を書いてきた。そしてそれは、強い者が、弱い者をいたわる型ではなく、自分も弱いから、つまり人間だから、相手の気持ちがよくわかる…という位置から、さしのべられた手のような、暖かみを持っている。
「うんと泣いておくんだね、忘れないように…」「本当の君、とってもつらいんだろう?…」「「君だけが一人ぼっち、僕には判る本当の心…」晴介の優しさは、おずおずと控えめに、まるで善良な兄貴が妹にかける言葉のように歌われていく。
昭和27年6月10日、東京生まれの20才。独協学園高等科卒。本名、山科晴義。芸名は、その山科の山に、母方の姓、松原の松をとった。晴介は「せいすけ」と読む。医師であった父の好みで4才からバイオリンのけいこ。中学2年の頃、その父に抵抗、ギターを弾き、歌を作りはじめる。当時、自作、自演の加山雄三がブームであり、PPMが来日した。
晴介のめがねは、左側のレンズの右上がこわれていて、その穴から、時々優しげな目が、こちらの表情をうかがった。
いわゆる芸能人志願の、着飾って、おりこうさんに見せようとする気負いなど皆無。「怠惰なんですよ」「成り行きまかせですね」「高校卒業したのは7月、まるで勉強しなかったから、半年のこされた」「学校?まるで意味ないとこと思ってたな」「高2くらいから下宿生活してた」「学校へ行かないとか、ギターがうるさいとか、何度も追い出された」「転々としていたのは練馬と中野の間あたり…」
歌声にある、若々しい覇気みたいなものは晴介の態度物腰にはない。ふてぶてしくなるちょっと手前で、立ち止まっているような投げやりな気配。物憂い表情で、自分のことを、まるで他人事のように話す青年である。年のわりの老成して感じられるのは、若いうちに人生の崖をのぞいてしまった、屈折した心を持ったせいか?
16才で母が死に、家に入った義母はすでに2人の腹違いの兄妹の母になっていた人。その人の存在について、父母の争いは、晴介の幼い頃から絶えなかった。
新生活間もなく、父を殴って家出。五日目に帰ったら父が死んだ。家を売り、実妹は父の兄の家へ−。精神的な放浪は長く、故郷は死んだ母、「夕日を見ると」が、その色濃い作品となる。
晴介に惚れ込んだディレクターのロビー和田は、彼のオリジナル200曲余りを、丹念に聞いた。そして、そのみずみずしい感性と、いくつもの角度に目を見はったという。優しさの他に「最終ランナー」にある「悲しみを怒りに変えるのだ!」という激しさ。「とにかくやるよ」の「僕は判ったんだ、少し生きて行けそうだよ」という呟きの意味。「赤い花模様の服」の「チーズとミルク、サクランボ、空に浮かべて歩きまわろう」という夢。そして、確かなタッチでかき鳴らされるギター…。まだ幼さが残っていて、プロの作家の作品みたいに、キッチりはしていない。ことに詞がそうだが、しかし、単なる感傷で書かれたものではないたしかな手応えがある。それと晴介の生い立ちが、ロビーの頭の中で結びついた。不幸が磨いた感性!、悲惨な生い立ちが育てた才能!、これは藤圭子のフォーク版だ!、晴介は言う。「そりゃあ、事実は事実としてあるよ。そういう出来事が、今の僕に無関係なんぞとも言わない。だけど、僕は僕、それはそれさ、人間なんてそんな単純なものじゃないよ」−もしお涙ちょうだいの伝説を作ったら?「それを僕がぶちこわしちゃうのも、面白いんじゃない?」 高校を卒業する時、「歌はずっとやっていく」と決心した。のど自慢、フォークコンサート、一切関係なし。コツコツと歌を作って、テープレコーダーで多重録音、年に一枚自分のレコードを作った。商品化を考えず、歌手になることも考えず。高校卒業後の2年は、年に4ヵ月働いた。パチンコ屋、花屋、立ち食いソバ屋、労務者、横浜の造船所…。友人に金を借りる。金ができるとついレコードを買ってしまう。3千円手に入ったら2千円がレコード、千円が芋に化け、それで一ヵ月暮らす。「芋を見るのも嫌になる」ジレンマの中で、借金が30万円に増えた。何とか余分の金を作らなければならない。そこへ今のマネージャーが、作品を売れとすすめに来る。持っていったらディレクターが、自分で歌え!とすすめる。それで出来上がったのが、このアルバムである。
それはそれでいい…と思っている。怠惰なのだし、すべて成り行きまかせなのだ。少なくとも、オトナの目から見れば、そう思われる生き方をしている。そう考えるところから、ある種のポーズも生まれて来よう。しかし、その暮らし方が、オトナの理解を越えてはいても、晴介は実は、ひどく真剣に生きている青年である。何よりもまず、精神的に自立しているし、次に“うた”を“くらし”に優先させるほど、大事にしている。それはこのアルバムを聞けば、はっきりする。まぎれもなく、晴介の“青春の軌跡”がくっきりと浮かび上がっているせいだ。
フォークがはやっている。自作自演だ。若者たちは“うた”を自給自足しはじめた。既成の歌謡曲勢力と、対立するエネルギーを持っている。そんな流れの中で、歌を通して自分を見つめる若者が生まれた。晴介もその一人だ。昔、文学青年は、あてどなく小説を書いた。まず第一に、己のために。今、一部の若者の中で、音楽が文学と入れ代わろうとする。その場合、“うた”は“遊び”でなくなる。
小西 良太郎
Good Weather Studio レーベル第2弾!
松山晴介は17才の時に音楽で生きていこうと決心した。時に高石友也、岡林信康、高田渡、五つの赤い風船などURCレコード系のフォークがラジオから流れ、唄で世の中を変える事が出来るような気がした。松山晴介も当然その影響を受け、唄を作り、唄う事で自分を確立したいと思った。出来うれば彼等の一員になる事を願った。
その頃、松山晴介はアパートで一人暮らし。晴介の無謀な決心を止める親もなく、彼の決断を応援する友人もいなかった。晴介がその決意を表明した唯一の人物は、彼とは何のゆかりもない学校の保健室の年老いた女性職員だった。彼女は面倒臭そうに「それがいいんじゃないの。」と言うだけだった。もし、状況が一年半前と変わらなかったら、松山晴介はその決断を出来なかっただろう。彼に過大な期待を寄せていた両親が許さなかっただろうし、それ以上に晴介を唄に向かわせた衝動そのものが別のものになっていただろう。
松山晴介の音楽の基本はポップスである。上を向いて歩こう-クレイジーキャッツ-若大将加山雄三-グループサウンズ-フォーククルセイダーズと続く流れの中にある。
松山晴介の音楽で特筆すべきは、彼はその時代にいながらボブ・ディランの影響を全く受けなかったことだ。ディランに影響された誰かの唄に触発される事はあっても、ディラン自体を聞く事はなかった。
また、松山晴介はフォークロックの洗礼を受ける事もなかった。バーズ、ザ・バンド、サイモンとガーファンクルもダメ。フォークのカテゴリーにありながら、その奔流に完全に乗り遅れてしまった。
当時の松山晴介が最も影響を受けたアーティストはローラ・ニーロだ。このアルバムの中でも、コード進行などに名残りを見つけられるだろう。
晴介の曲の作り方はスリーフィンガーのギター一本で納まるものではなかった。最低でもベースとピアノが必要だった。しかし現実はギター一本で表現しなければならない。そこで晴介はリード、サイド、ベースを一度に弾く奏法をあみだそうとした。ローラ・ニーロのピアノをコピーする事からはじめたこの奏法は確かに松山晴介を特徴づける効果はあった。しかし晴介のギターは忙しいだけで魅力のないものだという意見もある。確かにクラシックギターと比べたら身も蓋もないし、同じような発想の下でもっと素晴らしい奏法もたくさんある。松山晴介自身もこの後ジェイムス・テイラーを知る事で奏法が変化していくのだ。何はともあれこのアルバムでは松山晴介のギターが全面に出ているので聞いてみてほしい。
作詞の面で松山晴介が最も影響を受けたのは中原中也だ。先にも述べたように、純粋なポップス指向だった晴介に詞の重みを教えたのはURC系の一連の作品であり歌い手だった。早川義夫、西岡たかしのシンプルでありながら強烈なメッセージ。高田渡、山之口獏の人生を見据えたような世界。松山晴介はポップスでありながらも深みのある詞の世界を模索した。中原中也を知って松山晴介は自己の内面を詞にする術を学んだ。だが、このアルバムの唄に中原中也の影響を見つけるのは難しいかもしれない。松山晴介が中原中也から得た極意については別の機会に書こうと思う。
松山晴介がこうして曲がりなりにも唄の世界にいるのは全くの幸運だとしか言えない。晴介自身が積極的に活動したのは、高校二年の時に学園祭でライブをやった事と、一度だけURCレコードに売り込みにいった事だけである。
松山晴介の実体は現在でいうところの「引き蘢り」である。晴介を引き蘢らせた最大の原因は、急激な環境の変化についていけなかった事である。具体的に晴介を苦しめていたものとは、強烈な自己嫌悪と底なしの人間不信だった。この二つがスパイラルして苦悩を深めていくのだ。そんな中で、晴介の作る唄の中だけに松山晴介という人間が表れていたのだ。
松山晴介を音楽の世界に引っ張り込んだ最初のアルバムのプロデューサー、末広氏は東京、成城の住人。若大将、加山雄三を生み出した東宝映画のメッカである。松山晴介の唄のルーツがポップスである事を考えると、このデビューの切っ掛けは当然だったのかもしれない。ただ、当時の松山晴介はアンダーグラウンドなフォークの世界に憧れていた訳で、自分の本質を否定していた。晴介が末広氏を煩わせたのは間違いない。
松山晴介の唄は純粋な和製ポップスの中に内的自己を反影させようと試みたものである。もちろんこれは何も松山晴介の専売特許ではない。また、これらの事を当時の松山晴介がハッキリ意識していたかどうかも怪しい。彼はどうしようもないジレンマの中で自然とこのかたちを選んだのだと思う。松山晴介自身が望んだフォークでもなく、かといって歌謡曲でもないこれらの唄をなにかカテゴリーの中に放り込む事もないと思う。むしろ松山晴介は、他の誰のものでもない松山晴介の唄を作ったのだと考えた方がいいのかもしれない。
